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お詫びm(__)m [心の履歴書]

今朝何気なくケータイから自分のブログの管理ページを見ていたら、未承認コメントが数件あるのに気づきました[exclamation×2]

「心の履歴書」カテゴリーの記事については、コメント設定を「承認後表示」にしてあります。
私は今までとんでもない勘違いをしておりまして、「記事一覧」ページでコメント数0となっていればコメント自体をいただいていないものと思い込んでおりました。
ところが・・・「記事一覧」とは別に「コメント一覧」というページがございまして、ここで未承認コメントの確認ができることを今朝初めて知ったのであります[パンチ]
大変お恥ずかしい限り・・・[がく~(落胆した顔)]

頂いたコメントは、もちろん読ませて頂きました。
いずれのコメントも大変お気遣いを頂き、恐縮しております。
なかにはご自身の個人的な経験を書いてくださっているものもあるため、未承認のまま非表示とさせていただくことにします。
今後もそうしたいと思いますので、引き続き忌憚なきご意見ご感想を頂ければ幸いです。

皆様のお陰で、勇気百倍[exclamation×2]でございます。
ほんとうにありがとうございます[わーい(嬉しい顔)]
今後ともよろしくお願い致します[ハートたち(複数ハート)]

真実を見つめる [心の履歴書]

いつも あおぞら!/真実を見つめるのは怖いですか?


私にも
うまく行かない
日もあります。


うまく行かないとき
多くの人が
気晴らしをします。


上手に気晴らしが
出来ていない人には


周囲が気晴らしを
勧めたりします。


気晴らしもいいでしょう。


かつては私も
そうしていました。


カラオケに行ったり
ドライブをしたり
映画を観たり。


しかしもっといいのは
問題を見つめること。


気晴らしをした後に
問題と向き合う
勇気が湧くといいですね。


必ずしも
敏感に反応しなくて
いいのですから


問題を
味わってみたら
いいのです。


つらい?
よくわかります。


以前の私は
忘れるまで気休めを
続けていました。


ああ思い出しました!


学生のころなどは
よくテレビゲームに
逃げていました。


気にならなくなるまで
逃げ続けました。


それによって
人間的成長の機会を
次々と逃していきました。


もったいない。


知識がなければ
嫌な出来事や問題に
過敏に反応してしまうものです。


過敏に反応して
対処できない自分に
いらだつのでしょう。


必要な知識は
「人生というものは
なかなか
悪くなりにくい」
というものではないかな。


皮肉なことに
真実から
目を逸らさなければ
なかなか人生は
悪くなりようがないのです。


何かいいアイディアが浮かんだら
ワクワクリストに!


今日もあなたに
何度も幸せが降り注ぎますように!




続き・・・私にとっての真実とは


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ワンタンの皮に想う [心の履歴書]

前記事にて予告しました通り、夕食はワンタンスープを作りました。
それにしてもこのワンタンの皮のパッケージ、なんでこんなコピーをつけたのか・・・

今日、彼と二人で
ワンタンを作った。
意外とカンタン!
手料理っておいしい
幸せ、幸せ。

東京ワンタンのワンタンの皮

今日、ひとりでワンタンを作った。
・・・それが何か?

続き・・・おヒマな方はどうぞ


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永遠に満たされない [心の履歴書]

よくコメントしてくださる皆さんのブログを拝見したり、以前引用した「水筒に水が半分」の話のことを考えたりしていて、ふと思いました。
私って、一体何がそんなに満たされずにいるのだろうか・・・と。

6月から飲んでる漢方薬のおかげなのか、特にここ2ヶ月ぐらいでかなり痛みが気にならなくなってきました。
だけど、その分痛いのを言い訳に出来なくなったというか、心の問題とストレートに向き合わなくてはならなくなってきて、痛みが少なくなったからといって心の方はちっとも楽になっていない現実をどう考えるべきか、戸惑っています。
とても贅沢な悩みであることはよくわかっているつもりなのですが。

「水筒に水が半分」の話を、自分に当てはめて考えてみることにしました。
私は、半分を少ないと思うタイプか、多いと思うタイプか、どっちだろうかと。
しばらく考えて出た答え・・・水筒に水がいっぱいでも満足できないタイプ!!
そうそう、私ってそういうやっかいなタイプなのです。
なんでそういう考え方をしてしまうのか・・・。

ある女の子が、頑張って水筒にお水をいっぱい入れました。
それを褒めてもらえるのかな、と思いきや、新たに空の水筒を渡されました。
「そっか、これをいっぱいにすれば褒めてもらえるのね」
そう思って、女の子はまた頑張って水筒を水で満たしました。
でも、空の水筒は思ったより沢山あるみたいです。
他の人より沢山の水筒をいっぱいにした人が一番幸せになるって言われました。
女の子は、どうせなら好きな水筒を選びたいと思いましたが、渡された水筒が一番間違いないと言われ、確かにそうかも、と思ってその後も黙って水筒を水で満たしました。

続き・・・心のゆとりがある方はどうぞ


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ジコチューな人とうまく付き合うには? [心の履歴書]

心の履歴書を書きます、といいながらなかなか進まないのですが・・・。

何をどこから整理すればよいのかわからないと思いながら色々考えました。
「今ここ」の問題に限定して考えても、親子の確執の問題はやっぱり避けて通れない。
何故なら、うちの親はふたりとも揃いも揃ってジコチューな人たちだからです。
私以外の人と話をしているときも、話が一方的だったり、自分の都合や価値観を押し付けがちになったりしてヒヤヒヤすることがよくあります。
どうも、相手の立場で考えてみる、という視点が完全に欠落しているようです。
なお悪いことに自覚がまったくない。
やはり血は争えないというか、私自身もふと気が付くと話がやや強引だったり親切の押し売り的な態度を取ってしまっていることがあり、後になってすごくヘコみます。
でも、父と母の場合はまったく無自覚なところがやっかいです。
そういう人とは冷静に話をしてお互いの理解を深めようとかいうことは無理みたいです。
相手の立場にたってみて、この人はどうしてそう思うんだろう、という観点が抜け落ちてしまっているらしく、自分が理解できないことに対して強引な屁理屈や感情的な態度でしか対応できないようなのです。
その問題に多少なりとも自覚を持ってもらわないと、親子だろうとどんな関係だろうと進展も何もありません。
そういう態度の人の相手をするのはとても疲れることです。
しかも、よりによってふたりとも・・・。

私が我慢する、という結論しかありえないのだろうか・・・。
出口は全く見えてきません。
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42年目の親子の確執 [心の履歴書]

42歳にもなって、子供の頃親がああだった、こうだったなんてことを気に病むのはおかしいと思われるかもしれません。

10年ぐらい前に心を病んだとき、いろいろ悩んだ末いったんは自分なりにけじめをつけたつもりでいました。
もはや親がどうこうではなくあくまでも自分の問題、彼らがどうであろうと、私は私の人生を生きればいいのだ、と。
でも、それから数年して体のあっちが痛い、こっちが痛い、という状態になって現在に至ります。
(それよりずっと前からガンコな肩凝り・腰痛持ちでしたが)

私が親のことにこだわるのには、ひとつ理由があります。
実は今になって本格的な親子の確執が表面化してしまったのです。
2ヶ月ほど前のことです。
とても唐突に父からあることを頼まれて、そのときはつい煮え切らない答えをしてしまいました。
でも、なるべく事を穏便に済ませたいと思い、1ヶ月ほど悩んだ末できるだけ父の意向に沿えるようにしようと話を切り出しました。
すると、「それはもういい、その話は終わった」という答え。
はあ?
自分から言っておいて、いざちゃんと話をしようと思ったら「終わった」って何?
(父がこうした意味不明の態度を取ることは初めてではありません)
母の態度も煮え切らなくて、さすがに堪忍袋の緒が切れました。

あの人たちは、いつまで私の気持ちを弄べば気が済むのだろうか。

彼らの役に立ちたくないわけではないけれど、して欲しいことがあるならあるで、どうしてもっと素直にその気持ちを話してくれないのだろう?
それで、わかったのです。
私達親子は、互いにきちんと向き合ってコミュニケーションできたためしがなかったのだ、ということを。
向き合うことを避けるから、たがいに腹の探り合いのようなやりとりになってしまうのです。
もっとも、彼らは無意識にそうしているにすぎず、一体何がいけないのかまるで見当がつかないだろうと思いますが。

すごく意地悪な言い方をすれば、私という存在は彼らにとっては戦利品のひとつに過ぎないのだと思います。
戦後~高度成長期に勝ち組としてのし上がった末の戦利品。
自慢の仕事、自慢の家庭、自慢の娘・・・。
私の気持ちとは関係なく、彼らにとって私は自慢の存在でなくてはならなかったのです。

子どもの成長に合わせて親が子どもへの手を次第に緩めていれば、子どもと親との対立は起こり難く、起こってもそう過激なものにはなりません。けれども子への期待が強いあまり、「よかれ」が子どもに強く長く続いた場合、「よかれ」との親の善意は、子どもにとっては自分を無視し、自分の道をねじ曲げる暴力に映じることになります。そして「よかれ」による先導は、やがて子どもの反撃に遭うことにもなります。
子どもが育つ条件―家族心理学から考える 柏木恵子(2008年7月、岩波新書、p.84)

子どもはいまや経済的価値(稼ぎ手)でなく、精神的価値、社会的ステータスの証明として存在しているのだ。にもかかわらずどこかでこのことばは経済的に支えることの価値称揚にすりかえられている。実は精神的に「子どもが親を支えている」のかもしれないにもかかわらず、である。
愛しすぎる家族が壊れるとき 信田さよ子(2003年6月、岩波書店、p.109)

私の両親は、親の意向に沿うのがいやで、それぞれ田舎から東京に出てきた人たちです。
とても苦労したことも良く知っています。
それでも、私は彼らの仕打ちを許すことが出来ません。
もはや過去の話、と言えるのならともかく、今なお振り回されて、これからもずっと振り回されることを許せば、私は完全に自分を見失ってしまうかもしれない。

私にとっては過ぎたことではなく、現在進行形の話なのです。
今あえて過去のことを検証する必要があるのはそのためです。
水に流そうにも流せないのです。

悪いのは彼等だけではなくて、これまでこの問題をうやむやにしてきた私自身にも責任はあると思います。
彼らの言うことなすことにいちいち敏感に反応して傷ついてしまうのは、私が弱いから。
私がもっと強くて、「いい子」のレッテルに甘んじることがなければ、今こんなことを書かずに済んだでしょう。
もっとも、感情が理性を上回って思わず行動に移したこともあるにはあったのですが、それでも彼らはSOSのサインを受け取ることすらなく、ひ弱な私はただただ無力感を味わいながら怒りを押し殺すことしか出来なかったのです。

でも、これからでも遅くはないと思います。
今より強くなって自分らしく生きていくために、私は「心の履歴書」を書こうと思います。
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